■第二部株価指数

第9軍団は損耗率約20%にもなったが、依然対峙する南軍の2倍の兵力があった。バーンサイドはその側面の崩壊で気力が萎え、全部隊にアンティータム・クリークの西岸まで後退を命じ、そこで緊急に増援と大砲を要求した。マクレランは1個大隊をipo できた。マクレランは「私はこれ以上何もできない。ここには歩兵部隊がいない」と行った。しかし、実際にはマクレランにはまだ投入していない があった。ポーターの第5軍団とフランクリンの第6軍団であったが、あまりにも用心深く北バージニア軍によって起こるかも知れない大軍の反撃を心配していた。バーンサイドの部隊はその日の残りを、占領するために多くの損失を被った橋の守備に使った[52]。 戦闘は午後5時半に果てた。この日の損失は両軍共に重いものであった。北軍の損失は12,401名でそのうち戦死は2,108名であった。南軍は10,318名の損失で戦死は1,546名であった。この損失は全軍に対する比率として北軍で25%、南軍で31%に相当した[53]。この1862年9月17日に、アメリカの軍事史の中で第二次世界大戦の1944年6月6日D-デイや2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件など、どの日よりも多くのアメリカ人が死んだ[54]。9月18日の朝、北バージニア軍は北軍の来襲に備えて守りの準備をしたが、個人向け国債 は無かった。両軍共に負傷者を回収したり交換したりするための一時的休戦とした後で、北バージニア軍はその夜にポトマック川を越えてバージニア州に撤退を始めた。 リンカーン大統領はマクレランの戦果に失望した。彼はマクレランが慎重に過ぎ、戦場では連携がお粗末であったために南軍を叩き潰す代わりに引き分けに終わったと思った。歴史家のスティーブン・シアーズは次のように同意している[55]。 共和国を救うために強力な資産運用 に向かったその戦闘遂行過程で、マクレラン将軍はわずかに50,000名の歩兵と砲兵しか投入しなかった。その軍隊の3分の1は1発も撃たなかった。それでなくても。何度も南軍北バージニア軍を崩壊の危機に陥れたが、勇敢な偉業となるはずのものが、指揮官が自軍の敗北を避けること以上のものを考えなかったために完全に失われた。 大統領は、アメリカ陸軍局や大統領自身の懇請があったにも拘らず、9月17日から10月26日までの出来事にさらに驚かされた。マクレランはポトマック川を越えて北バージニア軍を追撃することを辞退し、装備の不足や軍隊の使いすぎの恐れを訴えていた。最高司令官のヘンリー・ハレックはその公式報告書に「打ち破られた敵を前にして、また急速な移動と活発な作戦行動に最適の季節に、これほどの大軍を長く使わないでいることは大きな失望と後悔の事態である」と書いた[56]。リンカーンは11月7日にマクレランをポトマック軍指揮官から解任し、これが実質的にマクレランの軍歴の終わりとなった。 歴史学徒の中には、北軍の「戦略的勝利」という定義に疑問を投げかける者がいる。結局、マクレランはこの方面作戦や戦闘そのもので戦果を挙げられず、リーははるかに勢力の大きい敵軍に対する戦争で戦果を挙げ偉大な指導力を示した。損失数は両軍似たようなものであったが、北バージニア軍は全軍に対する損失率としては高いものについた。北バージニア軍が最初に戦場から撤退したので、技術的な定義では南北戦争の戦闘における戦術的敗者となった。しかし、戦略的な意味合いにおいて、戦術的な引き分けであっても、アンティータムは、リーの戦略的な作戦(最初の北部侵略)を終わらせ、リンカーン大統領が9月22日に奴隷解放を発した(発効は1863年1月1日)という理由で、南北戦争の転回点になったと考えられている。リンカーンは解放宣言をもっと早く発したかったが、その閣僚から、宣言が絶望の中から発せられたと認識されることを避けるために北軍の勝利の後で宣言した方が良いと助言されていた。北軍の勝利とリンカーンの宣言はフランスやイギリスの政府がアメリカ連合国を認知しないように説得するために大きな役割を果たした。もし北軍が敗戦を繰り返しておればフランスもイギリスもアメリカ連合国を認知する計画であったろうと推定する者がいる。奴隷解放宣言が戦争の進展に結び付けられると、どちらの政府もアメリカ合衆国に反対する政治的意図を持ちえなかった。歴史家のジェイムズ・マクファーソンはその著書『自由の十字路』の中で、アンティータムの重要性について要約した イウカの戦い(イウカのたたかい、英:Battle of Iuka)は、南北戦争初期の1862年9月19日に、ミシシッピ州イウカで行われた戦いである。イウカ・コリンス方面作戦の最初の戦闘であり、北軍ウィリアム・ローズクランズ少将が南軍スターリング・プライス少将の進軍を止めた。 南軍の将軍ブラクストン・ブラッグが1862年9月にテネシー州から北のケンタッキー州に入ったので、北軍のドン・カルロス・ビューエル少将はそのオハイオ軍を率いてテネシー州ナッシュビルから追跡を始めた。南軍はビューエル軍がグラント少将のテネシー軍で補強されるのを防ぐ必要があった。その年の夏、コリンスの包囲戦以降、グラント軍はテネシー州西部とミシシッピ州北部で供給線を守っていた。 9月13日、南軍のスターリング・プライス少将はその西部軍をミシシッピ州テュペロからコリンスの東20マイル (32 km)にあるミシシッピ州北東部イウカの町に移した。そこは北軍の小さな補給基地であり、グラントがメンフィス・アンド・チャールストン鉄道沿線に作った一番東の基地だった。プライスの騎兵隊はそこに駐屯する小さな北軍守備隊が設けた防柵で小競り合いを演じた。9月14日の夜明け前、北軍の指揮官ロバート・C・マーフィー大佐は補給所の物資に火をつけ、その2,000名の旅団を率いてコリンスに戻った。南軍兵士は補給所に駆け込んで火を消し、貴重な物資の大きな集積を手に入れた。グラントはマーフィーを逮捕させ、軍法会議にかけた。 プライス軍はイウカで落ち着き、アール・ヴァン・ドーン少将の西テネシー軍約7,000名の到着を待った。2人の将軍は合流してグラントのテネシー州西部の通信線を攻撃する意図であり、それによってグラントが彼等の期待通りに動けばビューエル軍の応援に行くことを妨げ、もしグラントがより受動的に行動すればブラッグの北部侵攻の支援に回れると考えた。 グラントは攻撃されるのを待たず、南西に行軍するために4日間掛かるヴァン・ドーンの援軍が到着する前に、プライスに2部隊を集中させることを承認した。グラントはエドワード・オード少将のテネシー軍3個師団(約8,000名)にメンフィス・アンド・チャールストン鉄道に沿ってバーンズビルに送り出し、鉄道の北の道を採って北西からイウカに向かうようにさせた。また、ウィリアム・ローズクランズ少将が指揮するミシシッピ軍にはモービル・アンド・オハイオ鉄道沿いに同調して進ませ、2個師団(9,000名)がイウカに南西から回り込んでプライス軍の退路を塞がせ、一方、残りの軍隊でヴァン・ドーンの脅威からコリンスを守ることにした(ヘンリー・ハレック少将が東部に出発して以来、グラントは西テネシー地区の指揮を執っており、地区境界内で活動するローズクランズ軍を指揮下においていた)。比較的複雑な2方向からの攻撃計画はローズクランズの案であり、彼は以前イウカに駐屯していたのでその地域に詳しかった。グラントはオードの作戦本部と共に動き、戦闘中ローズクランズには戦術的な指示をほとんどしなかった。 オードは9月18日の夜にイウカに到着し、夜陰が訪れる前にイウカから約6マイル (10 km)の地点でその威力偵察隊と南軍の哨戒隊との間に小競り合いがあった。ローズクランズ軍は遅れており、泥でぬかるんだ道をまだ進まねばならなかった。さらにその軍隊のうちの1個師団が間違った方向に進み、正しい道路に戻すために反転しなければならなかった。オードは南軍に降伏を要求したが、プライスは拒否した。プライスはヴァン・ドーンから2つの軍がリエンジーで落ち合って、その地域の北軍を攻撃することを示唆する伝言を受け取っていた。プライスは自隊に翌日行軍する準備をしておくよう命じた。ローズクランズ軍は9月19日の朝早くも進軍したが指示されたように2つの道を使うのではなく、ジャシント(ベイスプリングス)道路に沿って進んだ。グラントは、ローズクランズ軍がイウカに着くまでに要する長い時間のことを考えた後で、おそらくは19日中に着かないだろうと判断し、 にはローズクランズ軍と南軍が交戦する音を聞くまで攻撃を待つように命令した。 ローズクランズ軍は19日に町から2マイル (3 km)に達しており、午後4時半に先遣隊であるサンボーン旅団が、ジャシント道路の分かれ道とフルトンに繋がる道の交差点近くのミル道路で、リトルの師団に急襲されたとき、南軍の哨戒隊を押し返しているところだった。ハミルトンはその部隊を最も利点のある位置に配置させ、砲兵隊はその目的に適う唯一の場所に就かせた。マイズナー大佐は第3ミシガン騎兵隊の1個大隊と共に右翼に送られ、第10アイオワ歩兵連隊と第11オハイオ砲兵連隊の一部が右翼に就いた。